ラボを捨て、ビーチに出よう

Love-tuneから7ORDERへ:どこにいたって君がアイドルだ

舞台「ETERNAL GHOST FISH」:史実を弔うこと

 この物語は、数奇な運命に翻弄された婉容と溥儀との魂を救うために捧げられたものではないかと思っています。この物語の核となっている婉容と従者(この舞台ではオモイ)との不義密通。婉容のwiki婉容 - Wikipedia )はこう記されています。

婉容は満洲国皇后時代に娘を出産した。婉容は溥儀の子であると主張したが、溥儀はこれを認めず不義であると責め、相手を問いただしたが、婉容は黙秘を貫き、不義を疑われた2人の元侍従が放逐された。上記の自伝にある「許し得ない行為」とは、このことを指していると考えられている。しかし、産まれた娘はすぐに彼女の前から消えた。婉容本人には「親族の手で育てられる」と伝えられたが、実際は溥儀の命を受けた従者がその子を、生まれてから1時間足らずのうちにボイラーに放り込んで殺害していた。

 更には日本に脱出した溥儀とも生き別れ、末期のアヘン中毒による婉容の惨たらしい最期も書かれていました。

小窓から覗くと、驚いたことに皇后は寝台からコンクリートの床に転がり落ちたままで、お食事も遠くの入口に何日間も置きっぱなしになっていました。(中略)大小便が垂れ流しとなっていたため、ひどい臭気でした。

 ラストエンペラーや世界史の教科書レベルの知識でなんとなくは知っていたものの、本当に悲しい、辛い婉容の生涯。一方で、このお芝居の最後で、溥儀とのつながり(いがみ合っていた二人が並んで静かに水槽をシーンの情感よ)を胸に抱き、オモイの身の安堵も知り、孤独な状況ではあったかもしれないけれど、幸せな思い出を胸に、穏やかに息を引き取ったかに見えるエリザベス=婉容の姿は、上にあげた「史実」とは明らかに違うもので、作者の彼女への思いがあふれているように感じました。

 一方での溥儀の描かれ方。「史実」では婉容に対して冷淡にさえ思えるような扱いであったのに対して、この舞台の中では彼女への不満や、その不満の底に流れる愛情がこれでもかというくらいの熱量で叫ばれていました(本当にこの辛さで体中の細胞が引き裂かれるような慟哭は鈴木勝吾さんらしい濃い粘りのある体に響くお芝居であったなあと)。更には、この演劇の「中ほど」で描かれていたように(この一般的なイメージで描かれる板垣、甘粕、笹川、児玉のとんでもない迫力)日本(関東軍)の傀儡皇帝とされること宣告されても、「皇帝になりたい」と体の底から自分自身のアイデンティティを求める呻きも本当に凄かったです。婉容が皇帝の妃としての役目を果たそうとしないことへの嘆きと怒りの表現(そして婉容の思いとの断絶)もさもありなんっていう感じもあってよかったですね。そして、その「引き裂かれるような呻き」が更に婉容を不幸の淵に追いやっていく。この、溥儀が自らの思いを溢れさす姿もまた表面的な「史実」とは違う、作者や演じ手たちの溥儀への思いであるように感じました。

 そのような祖国と愛する王や皇帝の縁者である川島芳子や執事さんやオモイ(そして李香蘭も)の想い。それは決して明確な言葉にはされてないからこその表現が本当に好きで素晴らしいと感じました(執事さんの児玉誉士男への冷たさはきっとそう)。個人的に、このお話の一つの軸となっているのが、旧清勢の人達の婉容を救うためであったり、関東軍が最初に描こう(シネマに撮る)としていた偽の歴史への抵抗的な思いから、(ここは自分の解釈ですが)溥儀を本当に暗殺してもかまわないという流れであったり、それぞれの溥儀への想いであると感じています。執事さんはおそらくイギリスにも行ってて、溥儀と婉容のためにonly silver fishを持ってきたし、王の衣装の文様に描かれる王の徳を繰り返し皆に聞かせるのはきっと溥儀にこうなって欲しいという心情があったからだろうし、今では日本人となりながらもどこかで旧清やその国の人々のプライドを守りたい(それは溥儀を暗殺しても果たしたいと思っている)川島芳子の行動であろうし、婉容への愛と溥儀や旧清への忠義のを同じ様(あの椅子を引く時のぐしゃぐしゃになってる表情は忘れられないなあ)に見せるオモイの姿。その「言葉にされぬ思い」の彼らの端々に描かれている(そしておそらくそれがこの物語の最大のギミックになっている)のが様々な場面を思い返すたびに胸が締め付けられるような思いになるのでした。

 そのような様々な「史実」の重さをそこここで感じるからこそ、誰かが振り返るたびに、自分は誰が振り返ってるのかはわからないけれど、そのような史実の惨さが解きほぐされ、少しずつ歴史が和らいでいくことにちょっとびっくりしながらも(ちょっと都合がいいというかw)、「あー、こうなってよかったなあ」、「作者はこうあって欲しかったんだなあ」と感じたのでした。憎みあっていたものがお互いに理解し合い、助け合い、寄り添って作る(あったかもしれない)未来。最後はそれぞれの史実と同様に死んでいくのかもしれないけれど、その死にざまはどこか少しだけ違っていて。自決をやめて囚われの身になる(そして銃殺刑となる)川島芳子、青酸カリでの自決(周囲の人にも進めたらしい)から一人拳銃での死を選ぶ甘粕正彦。板垣、石原が揃っての溥儀への謁見。死なずに新たな世界にいきつく無名の人オモイ。日本の行く末をおそらく違った形で考える笹川と児玉(個人的に、なぜこの二人をこの物語に登場させたのかその理由が知りたい)。そして、開作はおそらく音楽は続け、それが息子にも引き継がれていく。そして、暖かい思い出や周囲が救われていることに安堵して亡くなる婉容。

 表面的に見える「史実」は変わってないかもしれないけれど、その心の中はその内実おそらく史実とは大きく違っている。振り返ったけれど、選ばず(歴史を変えることなく)、この世界の行く末を見て行きたいと言う開作の、そして作者。それでも少しだけ何かが違ってるという世界。なんだかすごくその心情わかるなあ・・。我々が過去、現在、未来と繋がっている世界にどう向き合い、どう歩んでいくのかを見せてもらった様に感じました。

 いや、これでも大筋の感想だけだものなー。こうした物語を紡ぐなかでの、手練れの俳優さんたちの大活躍、そして萩ちゃんの奮闘ぶりも語らねばということで、もう少しだけ続けていきたいと思います~。来年2月にはDVDも出るそうです。はやく振り返りたくってたまらんですよ~。