ラボを捨て、ビーチに出よう

Love-tuneから7ORDERへ:どこにいたって君がアイドルだ

TVアニメ「テクノロイド・オーバーマインド」第8回

 1週間延期してのテクマイ第8話。溶鉱炉おじさん事件が描かれるとのことだったですが、その顛末の意外性や衝撃性でツイッターの感想も騒然となりましたね。人とアンドロイドを繋ぐもの、そして対立させるもの。kokoroとは、心とは何なのかを改めて考えさせる回となりました。そして、急転直下というかその背後にいる「もの」たちの姿も具体的に見え始めて具体的に動き始めた。そしてコバルトが大きな負傷を負わされし意識を失い、確か次の日がスタアロとの決戦だったはず・・一体どうなってしまうの?なぜミスターが命を落とすことになったのかその部分はまだ明らかになっていないし、今回、語られなかったSTAND-ALONEのことも含めてあと残り4回で収まるのか、色々と投げ出してto be continueになってしまうのか、そんなことも心配になるちっちゃいオタク心も発動しそうなる第8回でした。

  • それでも第8回はとてもよいお話だったと。不要なアンドロイドを焼却する溶鉱炉工場の制限された生活の中で、育まれていた溶鉱炉おじさんことミスターとリッツ9号たちとの「交流」。孤独に工場でロボットたちを管理するミスターは、壊れかけの「ポンコツ」リッツ9号たちに音楽という新しい活動を植え付け、愛おしい仲間としての役割を与え、寂しく見えるも暖かな時間を作り出していた。何度も何度も「ポンコツ」と、コツンとやっていたのは、彼らに愛情を、そして相棒とみなしていたからこそだった。その繰り返す活動や時間の中で、次第次第に命令を聞くための存在であるはずだったミスターに対して、リッツ9号たちも、バグを起こしてしまう様なある種の「感情」をいだき、kokoroの発露が立ち現れていた・・そんな風に第8話の美しくも悲しいお話だったように感じられました。
  • この孤独な人間のこころといつでも捨てられても致し方ない人工物が作り出す一種の「愛」の美しさと切なさは、本当に現代のわれわれのすぐ傍にあるお話であることを感じさせてくれたのが、更に素晴らしかったように感じました。われわれはこういう世界の上に既に立っている。何かを否定して異なる生活を目指すことはかなりのナンセンスである・・そんな世界線に立ってると思ったりします。(とはいえ、アンドロイドはモノだから、不要なモノは、当たり前の様に、焼却処分されちゃうんですよね・・。テクユニでもアンドロイドが「処分」されることが言及されていたけれど、実際に動く絵で見ると、本当に辛いわ・・。でも、頭を切り替えるとこれはごく当たり前のことで・・・。ほんと、人間の営みに直面させてるのが好きな製作者たちだなあと感じます(よいよ、よいよ))。
  • そうであっても隣人としての存在感を増しつつあるロボットやアンドロイドたち。これは個人的な見方になるのかもしれせんが、今回見せてくれたものはロボットにどのようにkokoroが育つ、発露するのかのひとつのルートを示している様に感じました。ある行動を積み重ねていくことで、ある交流を積み重ねてくことで、そして人が関わることによりその「行動」は「絆」という特殊な意味(文脈)を持つようになっていく。また、その積み重ねられた行動や交流は、その膨大な量を積み重ねることにより(無限の0である記憶領域が必要であろうけれど)あるところで「自発的に」駆動するものとなる。そのようなものをヒトは「こころ」と呼び、感情を含めてそれぞれの機能に名前を付けることで、自律した「こころ」を持つ存在となっていく。という割と心理学であったり、ある種の人工知能開発においてはオーソドックスな「こころの起源」観を見せてくれたように感じました。
  • つまりは、すべてのロボットやアンドロイドには「こころ」が備わる可能性を持っている、そしてある時点でのロボットの「こころ」のビッグバンが生じるのではないかというところに帰着しそうな気がするのです。そして、人間がそのようなものに「こころ」があるという認識をすることで、こころを持つ存在として接することで、その「こころのビッグバン」は更に加速する。それはエソラやノーベルとKNoCCの4人との幸せで上質な関係性だけでなく、第8話冒頭のTV番組で出てきた偏見たっぷりのご意見であっても、ロボット排斥派が見せる差別的な敵意であっても、そしておそらくWGの中枢がボーラ警部補を彼の思惑とは異なるコントロールを直接的に行うという軋みであっても、それらの様なネガティブな、不幸せな関係性からさえも、「あなた」であり「自分」という意識も生じさせうるのかなと感じました。
  • 「同じであるあなた」「愛するあなた」も、「全然違うあなた」「嫌いなあなた」も共に「あなた」という「他者」を「それ」に付与するからこそ生じてくる。そこにこそ「こころ」の立ち現れがある・・なーんてつい考えてしまうのでした。そうなるとやっぱりクローズアップされるのは愛憎あわせもってしまう、ネガティブなものを孕んでしまうヒトのココロの二面性であるのかもと。
  • 第8話の冒頭場面で、明日がスタアロとの対決、つまりはコバルト達の大きな願いの成就のためのとてつもなく大事な前夜なのですが、ノックスの4人はいつもおように「チャンネル争い」を楽しく行ってるんですよ。おそらくそれは明日の重大さをわかっていないからではなく、それに伴いがちな「不安」であったり「焦り」であったりがまったくない。一方、人間のエソラは明日のことを考えて不安やあがる気持ちを抱え始めているのに。その違いが何をもたらしていくのか。10年後の世界を描くゲームのテクユニでエソラが、復活したノックスたちと再会しながらもどこか距離を置こうとするのは、10年前に受けた心の傷のネガティブな痛みの故なのかもしれません・・。
  • そんな風に、ネガティブを抱えこんだ人間であるスタアロと、ネガティブなものを今のところ抱えていないアンドロイドであるノックスの対決が、バベルの頂上決戦として描かれる訳ですね。そこで、作品の一番のテーマであることが告げられているノックスたちが願うアンドロイドたちの自律がどのように果たされていくのか。そこに第8話の最後で現れたノーベルさんやWGの危うさの更なる記述であったり、そしてカイトさんに付け込もうとしている排斥派の班目などの危うさの描かれであったり、そこから類推されるこれらの勢力との「戦い」と不可欠であるのか。個人的にはテクノロイドの作者たちはある種の平和主義者であると思っているので、なんとなくですがそういう方向にはいかないとは思ってるんですけれど、であるとすれば、猶更どう決着をつけるのかと!
  • このところ、アンドロイドを描きつつ、それを描写することで人間を描いているように見えるこの物語。アンドロイドの彼らが到達していく場所、そして「一緒に暮らしていくことを宿命づけられた人間たち」が何を見て、何を思い、何を再定義するのか。決して後戻りはない、10年後の世界はもうすでにそこに現前していて、その間をどう描くのか・・・その着地点に幸多かれという願う様な気持ちになっている昨今です。
  • それにしても、テクノロイド、本当に面白いなあ。自分にとって推し活の一番の醍醐味は、推しが素晴らしい作品に出演して、なんだかんだと作品や推しのことを語れることだと思っているので、萩ちゃんがこの作品に出演出来て本当によかったと心から思っているところです。