ラボを捨て、ビーチに出よう

Love-tuneから7ORDERへ:どこにいたって君がアイドルだ

役を生きるということ

 今回の舞台リトファンで、公演期間中を通じて一番お芝居がよくなったというか、変化して急成長していったのがみり愛ちゃんだと思っていたんですよね。初日の時は、こちらも見慣れていないせいか、演技も台詞回しもとてもぎこちない感じだったけれど、どんどんスムーズにこなれて行って、少年ヘンリーとホアニータの演じ分けであったり、ヘンリーの長い説明台詞の滑舌(もともと滑舌はよい方だと思っていたけれど)もどんどん回るようになっていって。そういえば、この舞台の本来的な主役はヘンリーだったなあと、その存在感がちゃんとあるなあと思っていたんですよ。

 もちろん物語全体の大黒柱(他の登場人物に与える存在感という意味でも)であり静の主演である萩ちゃんも、物語の華でありダイナミックさをもたらす動の主演の長妻くんも本当に主演だったけれど、この物語が新しき世に出ていくヘンリーが自立するまでの物語であることを考えると、その大きな役に合うようどんどんその身を大きくして行ったのがみり愛ちゃんであったように思っていたなあと。

 感情表現もだんだん豊かにコントラストもくっきりと演じられるようになっていったのだけれど、中でもびっくりしたのが、(これは何回か書いているけれど)、ラストシーンでマカーティとヘンリーのイメージの邂逅場面。いつものように父の笑みを浮かべ、息子の銃の角度を直し、去っていくその後。息子のヘンリーがもう感極まってる感じでぼろぼろと目から涙をこぼすのね。決して号泣するシーンじゃないので、涙を拭いたり、いかにも泣いているという演技ではないんだけれど、何かしらの大きな思いにつき動かされるように涙があふれてきてしまう・・そんな場面が後半の4回くらいの観劇で見ることができたんですよね。ご本人も言ってたけど、割とクールな子なのかなと思っていたのに、この熱量。そして、その涙の理由・・。そこがずしんと心に残るリトファンにもなったのでした。
 報道では、このお芝居の間に、二人の気持ちが寄り添って行ったことを報じていたけれど、長妻くんも含めて、二人は主演として、大きな課題に向かい合って、恋人として生きる時間が、そして繋がってはいなけれど繋がっている親子として生きる時間を、共に助け合って作っていくうちに、その気持ちが育まれたのだとしたら、リアルの中に物語であったり、創作の魔法がはいっていったのかもしれないけれど、それはお互いに色々な背景を背負う人間として本当に不器用なことで、正しい方法ではないかもしれないけれど、それはお互いに「役を生きてしまった」のではないかとふと思ってしまうのですね。彼らの俳優として、お芝居にかける情熱と切磋琢磨があったればこその、今ここでの帰結なのではないかと。

 昔から(それとも昔は?)、同じ舞台やドラマでの共演がきっかけで交際を始めた俳優さんたちはたくさんいらっしゃる。私はそういう俳優さんがどうも好きなのか、萩ちゃんの前に推していた俳優さんも共演の俳優さんとフライデーされた(そして、全体的にはほんわかお祝いムードであった・・今では分かれて別の人と結婚したけれど)過去を持つという(しかし、ほんと撮られる方が悪いって、よく言うなーって思いますよ~。あんなプロたちにかかったら、狙われたら終わりだよ、ほんと)。同じ課題に、同じ熱量で向かい合って、それぞれが魅力的だったら、惚れるのも自然だね・・と思うのですが、そういう事象に2度も出会うとは・・翻って自分の眼力をや・・と思ったりしております(笑。

 昨日、ふとテレビをつけていたら、ドライブマイカーがやっていて、あまり好きじゃないタイプの映画だけれど、ついつい最後まで見てしまって。そこでも、俳優と、演出家の間にある、演劇への愛や欲望であったり、人としての愛情であったり、職業とその人自身との虚実の向こうにある真実であったり、そういうものが重くも淡々と描かれていて、人間と智慧と感情と愛情を持つ生き物の再生のダイナミックスを描いていたように感じましたよ。きっと舞台リトファンの間にもそういうダイナミクスが起こっていたんだろうなと思ったんでした。まあ、演劇の神に、背中を押されちゃったんだから、うん、しょうがないし、その中で明朗爽やかデートができる二人が好きだなあと改めてかんじるのでした。

 役を生きてしまう様な経験はめったにできることではなく、演劇の神は「役を生きろ」と背中を押してくれたけれど、アイドルの神が苦い顔をされているのかもしれない。でも、その神様も、きっと、萩ちゃんと言うめちゃ異端の、そして不器用にまっすぐ生きる彼を放さないだろうなとも思うのでした。それは、とても難儀な道ですけれどね・・。