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Love-tuneから7ORDERへ:どこにいたって君がアイドルだ

舞台「Little Fandango」のとても好きだったところ その1

 舞台「Little Fandango」の東京千秋楽が終わってから3日。まだまだ頭の中は、リトファンのことで一杯で、でも上手く言葉にできないという日々が続いています。でも、大阪公演が7月にあるものの自分はもう生では見ることができないこととか(仕事の都合とはいえ悲しすぎる)、もう今週末にはながつのラスサマやムビ×ステ漆黒天も開幕して、映画の初日の舞台挨拶のチケットも運よくゲットできたので、ひとまずのまとめをしていこうと思います。といっても、色々と書きたいことばかり~、上手くまとめられるかはわかりませんが忘れないうちにしたためておきたいと思います。まずは・・

1.個の中の相克の中に見える歴史と時代

 DisGOONieや西田さんのお芝居の初心者がこういうのも生意気に思われちゃうかもですが、今回のリトファンを見て、やっぱりDisGOONieのお芝居が好きだなあと改めて感じました。それは、前作MOTHERLANDでもあった時代や歴史の移り変わりの面白さをお芝居が本当に上手い方々を起用して、個人の感情と時代の変化とおうスペクタクルささを、生の迫力たっぷりに存分に描いてくれているところかなあと感じています。更には迫力満点の殺陣&アクション、そしてアンサンブルさんやダンサーさん達の力強さ、何よりすべての俳優さんの魅力をくっきりと輝かせてくれるところ。それらの要素が混然一体となって見ごたえのある時空間を提示してくれている。老若男女誰もが存分に楽しめるエンターテーメント演劇であるなあと興奮りなのです。

 それらの要素の中でも今回のリトファンで特に感動したのが、その時代の移り変わりであったり世代が繋がっていくところを、世代の違う俳優さんを起用して、くっきりと見せてくれたところ。特に、内堀さん(モートン)、洋二郎さん(ブレディ)、松田さん(タンストール)、萩野さん(ローゼンバーグ)の4人のお芝居の迫力であったり、発声であったり、存在感の凄さ。義なんていう鯱張ったものではなくって、もっと根源的な「自分が存在ている、してきたことの意義」をかけて、この4人同士で、もしくは若者とぶつかり合う様子が、本当に好きでしたね。「自分はずっと見たいと思っていたのはこれなんだ」と迂闊に思ってしまうくらいの凄みがありました。(思えば、このお四方と直接対決であったり絡むことができた推しの萩ちゃんは本当に恵まれておりましたね・・。)。ベテランから若手まで、それぞれに存在の意味や意義を、量的にも質的にも存分に活かした構成は、より広く色んな方にお芝居を見てもらう時に本当に大事になると感じました。

 このリトファンというお話は、ざっくりと言うとタンストール一家とローゼンバーグ一味という文明観の対決であり、その人間が阻害されていく文明化の中で愛と永遠の命を取り戻したビリーザキッドことヘンリー・マカーティのお話だと思ってるんですが、何度も味わっていくにつれ文明観の対立というのは、単に立場の違いではなくって、世代の違いの中に内在されていることがわかってきたように感じます。

 タンストール一家の若者たちは荒くれ者であり、昔ながらのカウボーイに憧れる連中な訳ですが、それでもローゼンバーグやブレディやモートンのような根っからのならず者でないように感じています。後に加わるマカーティを除いてはおおむね人を殺したことがない。ローゼンバーグたちに追い詰められた時に、大統領に恩赦を願おうとしたリーダーのリチャードやNO2のドク。タンストールが殺された時に一家の中でも年若いジョージ・コーから嗚咽と共に出た「法で裁かれるべきだ」という嘆き。そして、有力者の子女であるのか一人だけ恩赦を受けたピート。

 常に対立する2つのグループの間で立ちまわっていて殺人も何度も行っているパットの願いは、愛する人がどこかに行かないように養っていくことと、ふたりで安心して寝ていらるベッドが欲しいこと。そして、悪漢王として名をはせたマカーティが愛を知り、生まれた子を抱いて今際の願うのは「きっちりやり直せる人生を歩んでもらいたい」、「運と奇跡に恵まれた人生を送ってもらいたい」ということ。

 世代の上の者たちが荒くれた時代の中でいかに自分の欲を叶えていくかに全力であるのに対して、彼らが育てた世代は愛と秩序のある世の中をどうしても願わずにはいられないという世代のギャップがあるようにも感じていて、それは時代の本当の声でもある。この物語の後、パットやピートが町の整備を進め、そこで前の時代の悲劇の実でもあり、希望の種である少年ヘンリーがすくすくと育っていくことができる。それが、大きな時代の流れであり、その流れの中で生きざるを得ない、そして生きざるを得なかったから生まれた新たな思いと未来をくっきりと描いてくれていたように思うのですねリトファンは!誰もが歴史を作る大きな役割を担ってるそういう物語の様に感じました。

 そういう歴史と個人のダイナミクスを、世代を超えた個々の俳優さんの良さを存分に引き出しつつ見せてくれる。それもしっかりと時間をかけて、胸躍るアクションたっぷりに・・なんていうこととが、本当にディスグーニーならではで、やっぱり好きにならざるを得ない訳ですよね~(ひとつ、いつもよりいわゆるクソデカ感情成分は少なめだったとは思うのですが、それがないきっぱりさも好きだったりしました)あー、ほんと、このリトファンで、推しの萩ちゃんとながつが主演させていただけて、本当に本当に感謝する次第です。

2.血判とピートの思いと成就する人生のこと

 今回、ピートがアポリアーナの願いを聞いて、ホアニータを殺害し、マカーティも射殺未遂となった理由については、色んな説がありかと思うのですが、自分は「自分の立場に絶望していたピートが死に場所を探していたから」と感じています。上にも書いたように、タンストール一家が追い詰められ、マカーティが牢に入れられ、生き残った者が散り散りになる中で、ひとりだけ恩赦を受けたピート。その理由は明確に描かれてはいないけれど、やはりピートが街の有力者の子女だったからと考えられる。しかし、あの山脈での戦いの前に血判状を押している一家のメンバーのことだから、基本裏切ることなどありない。しかし、結果的にそうなってしまったピートにとっては、自分の信念や人生そのものへの疑義が大いに沸いていたのかもしれない。

 そこに来ての愛するアポリアーナの願い。それを聞き入れたのは、アポリアーナへの愛や以前の約束もあったのだろうけれど、それを成すことにより自分を最終的に追い詰めてしまいたいという思いもあったんではないだろうか。裏切り者である自分を死地に追いやり(マカーティを撃ったのも同じ理由だろう)、タンストール一家のピートとしての自分に落とし前を付けて死にたいという暗い願望を成就させることが、ラストシーンまでのピートの思いではなかったんだろうか。

 しかし、そこでピートは自分が撃ったマカーティが子に出会い、その子と未来に大きな愛を注ぐ様子を見てしまう。マカーティの人生が短いながらも不幸を沢山背負いながらも、愛によってそして自ら愛を成すことで、自らの人生を生ききり、そして時代へ生を繋ぐという大きな成就の様子を見てしまう(おそらく、マクスウェルが最後に言上げする「死んだ」の響きにはその成就の響きがあるように感じてる。ながつ、本当に素晴らしい。)。それがピートの心を死と言う淵から、生還させたのではないだろうか(それはパットもアポリアーナも同じ)。本当の愛を見ることで、そのような愛に触れることで、真の「やり直し」へ進むことができる・・そんな風にも思えるピートの結末でした。