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ディスグーニー舞台「Little Fandango」1回目2回目(ネタバレあるよ~)

 待ちに待ったディスグーニーの舞台「Little Fandango」が6月10日に開幕しました~。まずは初日10日ソワレと11日マチネに行ってきました~。萩ちゃん、ながつがW主演と言うことで本当に期待いっぱいで破裂しそうなくらいの気持ちでの乗船でしたが、本当に面白い、そして色々と考えさせられる舞台で、本当にこの舞台で二人の演技を見ることができて本当によかったなあと思います。本当に西田さんを始めディスグーニーの皆さん、ありがとうざいます!嬉しかった~。まだ公演序盤ということもあるので、どこまで書くか難しいなあと思うのですが、たぶん、がっつり書いてしまうと思うので、ネタバレなどはどうぞご自衛いただければ幸いです~。

 ありがたいことに、10日のゲネプロの記事が色んなネットニュースでたくさんあがってるのですが、中でも2.5ジゲンニュースさんのが観劇前の事前情報的にもちょうどいい感じの詳しさで、わかりやすさとネタバレのなさと何より萩ちゃんのお写真が素敵だったのでそちらを貼っておきたいと思います~。

25jigen.jp

 では、このリトファンを自分自身で見た事、感じたことを、そのままにしたためていきたいと思います。「文字で自分の思いを書け、それを残せ、そこに歴史が生まれる」が今回のリトファンのテーマの一つですもんね。これはこんな風に駄文を書き続けている自分へのエールだと思って、いつも通りに書いていこうと、色々と間違ってるかもだけれど・・。そんな訳でどうぞよろしくお願いいたします。

1.のっけから世界観とかテーマを妄想する(笑)。

 お話全体の感想としては、もうまずは勝手な私の解釈を書かせていただくと、西部劇の世界から見た西田さんならではの文明論であり作劇論なのかなあと。初見でもほぼストーリーは頭で理解できるわかりやすさ。敵と味方、悪と善、信用できないものと信用できるもの、野生と文明の対比。荒ぶる野生の、カウボーイたちの魂と身体の躍動の素晴らしさ。よりよく生きていきたい、生きのびたいと思う者たちの残酷さと切なさ。その世界観が最後の場面になるまで貫かれているんです。若いレギュレーターたちが苦心の果てにボスの仇を討つ時の高揚感と、その後の哀しい結末。本当に西部劇だなあと思うし、その西部劇が大好きだった1970年の日本人(それはやくざ映画愛する人々であった)が愛していた無頼であり、任侠の心にも通じるようなものがありました。

 一方、ラストで、その2項対立の末に生まれた新しい命は、父親殺しの義父と母親殺しの義母、そしてその実行犯を父に持つ親友に囲まれ、育つ。そして、文明化された世界ですくすくと大きな不自由もなく育ったその子は、いつの間にか、その一旦は消さてしまった実父の野生と彼がずっと求めていた人を愛する心を育てている(それは育ての親たちの隠された望みでもある)。文明化が進み続けるこの世で、カウボーイ魂を自ら発見し、それを支えとして生きていくんですよね。そんな希望であるけれど、よく見れば悪夢であったりもする。それが私たちの「文明」はそういうものだとも伝えたいような、そんな西田さんの「ありのまま」を見る、俯瞰の心のように感じました。

 荒ぶる心をたぎらせながらも、その野生がもたらす不安や不安定さの中では、人間は生きてはいけない(パットの「安心して眠れるベッドが欲しい」という日記の一文はこの物語の核心なんだと思うのです)。そして、どんな環境であっても、人は生き続けなければ何も始まらない。一方で、魂がなければ、その魂をたぎらす仲間が一緒にいなければ何も生み出すこともできない。文明の中で、絶滅していく命があっても、その命から必ず新しい命が生み出されていく。そんな世界観。そのことがとてもやさしくでも厳しく表現されていて、何より生き残ることの意義とどこか罪を憎んで人を憎まずな優しさ、そして、そんな枷を超えていくような永遠みたいなものを両立させようとしてるじゃないかと思いました。でも、人とによって見えるものはすっきりとしていて、そこが深いお話だなあと感じ入りました。これは解釈に過ぎるかもしれませんが、その感覚は、コロナ禍での演劇界やエンタメ界の苦難、それにまつわる正義の変節とか、それでも全体を俯瞰で捉えてる西田さんの視線があるんだろうなあと。そして、その思いをギラギラとまっすぐに表現してくれる洋二郎さん凄いなあと、本当に今回、人生全部背負っている人間だなあと思いました。

2.アクションを作り上げる世界が素晴らしすぎて

 ディスグーニーらしくW主演の二人を始め、ほぼ全員に濃厚なアクションと殺陣シーンが用意されていて、もうそれだけでも眼福なのですが、今回は特に舞台セットや大道具の使い方とか照明の使い方が本当によかったなあと。今回殺陣のシークエンスが全体的に構成されていて本当に見ごたえあります。特に1幕の最初の戦いのところが、バカみたいにカッコいい。それこそならず者たちが素朴にエネルギッシュにあふれ出すアクションシーンが自分の中の「ならず者」に火をつけるような興奮がありました。もう一つは上下に構成された、はたまた久しぶりの舞台降りのフロアまで含めた立体的な、セット使いとそこで繰り広げられるダイナミックな(まるでディズニーという人も)アクション世界。こちらも見事だった~。このあたりはもっと回数重ねてじっくり見て書き留めていきたいと思っております。

 そして、このような華やかなアクション空間の一役を担っているのが我らが長妻怜央のとんでもない運動神経でありスピード感だと感じました。縦横無尽に駆け回り、派手なアクロバットさえ連発する。本当にアニメの様なのですよねえ・・。拳銃回ししもとても華やか!としか言えない魅力がたっぷりでしたね~。一方で、こういうファンタジスタのアクションと対比するようにサバゲーを長年の趣味とする、そして銃にも詳しい萩谷慧悟が表現する真のならず者の、「命を奪うための」リアルなガンアクション。彼が演じるマカーティの2丁拳銃連続発射のシーンは打つたびに腕が後ろにどどどーっと反動する。そのリアルな重さ。戦闘の中で撃つことのリアルな幻想を見せてくれるアクション。いつでも銃口はまっすぐ敵の急所に向けられてて、その時の必殺の目つきと、人外のものみたいな眼の輝き。追い込まれて一杯殺してきたんだろうなあところが凄かったです。そして、そうしたリアルなガンアクションは萩谷慧悟の新たな武器になったなあと感じました~。

3.劇中で描かれている慧悟と怜央

 今回のリトファン見てると、萩ちゃんに求められている演技とながつに求められている演技の方向性が違いすぎてて(それも本人の得意な方向性を伸ばすものだったりする)、そりゃふたりがそれぞれの稽古や演技に見入っていたという西田さんのお言葉がめちゃわかるんですよね。それぞれが何を引き出されているか、本当に知りたいですもんね。怜央ピートは、心底人間らしくって人間の有限性と無限性の両方を示してくれている。人と交わる喜びと人に交わることで侵されていくもの。節操のなさとその切なさとだからこその進歩(このところ言われている流星さんのにーにーと近いキャラでもあるよね)。そういう人間臭さを全部持ってるキャラクターになっていて。羨ましいくなるくらいですよね。

 一方で、慧悟マカーティの純粋性と真の愛情の演じ方の説得力。どんなに凶暴であっても、底でしっかり侵されないよう守ってる優しさや真実のギリギリのところに立ってる不器用な胆力。本当に萩ちゃんらしいなあと思うのですよ。そして、言葉ではなく目の色であったり、立ち姿の姿勢だけで、内面の感情や人格が表現できる表現力。今回、二人のヘンリー直接に邂逅してる3つのシーンがよくってですね。あそこのマカーティが3形態とも違う想いと成長形として出てきて、それをちゃんと演じ分けられている(ファンの欲目かもしれませんが)のが素晴らしいなあと思いましたよ。

 慧悟マカーティの見せ場の演技において要求されていることや表現していることって、印象的には舞台斬月のアイムと近いものがあるような気もするんですけど、それは単に引き出しが少ないとかじゃなくって、これは怜央ピートもそうだけれど、それぞれに「ここが鉄板に輝く」みたいな武器を、西田さんが確立させてくれてるのかなあと感じています。これを演じさせたらそうそう右に出るものはいない、そういう俳優さんにまずなっていただけたらと、ちょっと萩ちゃんの前の推しのことを思ったりして、感じているところです。

4.ひとまずの〆に!
 そして、たくさんのリトファンの感想が本当に嬉しいなあ~。叶う事ならば、その思いの文字をnoteとかブログとか、ツイッターよりももう少し残る(検索しやすい)ものでも残してくださると、もっと多くの、もっと先の人にも繋がるのではと思ったりしたリトファンでした。ぜひぜひみんな沢山かいてくれよーーー!。最後に2回目の観劇でオープニングソングのところでやっぱり色んな発見をして涙腺崩壊し、夫々のシーンでの俳優さんの表情に「ああ、そうなのか」とびっくりすることが本当に多かったんですよね~。もちろん、今回のリトファン、初見で見て何かがわからないことも全然ないのですが・・。お代わりするごとにあの日記の様に謎が解けていくのだろうなと。その記録をしたためていこうと心に誓うのでした。