ラボを捨て、ビーチに出よう

Love-tuneから7ORDERへ:どこにいたって君がアイドルだ

TXT vol2. 「ID」 2回目(ネタバレあります)

 前回の記事から、もう一回初日の配信と初日ソワレの松田さんのインタビューを見ての、6月20日ソワレの観劇となりました。生で見るのは2回目。さすがの日曜日、ほぼ満席でよかったな~。歯ごたえのある物語の評判もよいようなので、どうかこれからもお客さんが増えていきますように・・。って思うのも初日から4日目になったからのか、自分の理解が少し進んだからなのか、ぐっと舞台の強度と深度が増していたんですよね・・・。そのあたりの、そんな訳なので物語の内容(すっごい勘違いしているかもだけれど)ことも含めて、感想を書いておきたいと思います。

  • 見終わった後、「あー、この物語(この回かもしれないけれど)の主題は『頑張れAIくん達』なのだな」と感じて。最後の風紀委員の言葉通りに「あとこの実験も15回くらいで終わるのでしょうし」となってしまうのがめちゃめちゃ寂しくなった、どんなにダメなところがあって、ずっとこの子たちと共に・・と思った20日ソワレ終わりでした。
  • その理由なんですけど、18日(2日目)舞台や初日配信を見た時に、最後にリセットされる場面、完全リセットなのか、それともその舞台の経験をもとに少し進化しているのか、判断が難しいなと思っていたんですよね。もし、完全リセットならば、それは神ではないない者たちの神への挑戦の無残さということで。それを俯瞰的に書けるような物語が書ける作者でもあるなと感じたし、変化があるのかどうかも自分の目ではまだ見つけられなかった。でも、20日のソワレを見ると、最後の委員会メンバーの感情の迸りが凄いとか、メンバー(つまりはAIなんだけれど)の苦しみまで丁寧に描くようになっていいたりとか、そんなエモーショナルな流れになっているので、見ている方も彼らへの愛情を感じるほどになるくらいで。そして、リセットから復活した後の委員会メンバーの、例えば学級院長の背筋が伸びて涼やかな声を響かせてるところとか、図書委員の涙をすっと流してぐっと拳を握るところとか、はっきりと感情を増した姿であるように見えてたんですよ。そして彼らの中には、デジャビュとして出てくるような過去の「記憶」というものが残っている。つまり、この物語は完全なループ・繰り返しではなく、経験を重ね、その記憶をうっすらと宿し、少しずつ進化するループっていう作りというのが演技で見えたような気がしました。
  • アバター(と言われる)と思わせられていた人間たちは、それでも、どんなに記憶を奪われ、一つの要素にだけ感情が強化されても、次第に自分(それがIDの本体なのでしょう)というものを取り戻し、目的的な行動をとるようになってしまう。生徒会長は、それは、目的が感情を「ごまかす」とことだ言っていたけれど、別の言い方をすれば「意思」がすべての要素を動かしていくという説明にもなりうるという。そう、あそこでの正解は「目的」ではなく「意思」なのではないかなと(そこが生徒会長の間違いなのかな・・)。それこそが、人間を人間たらしめるもの。だから、人間たちには「意思」を表明する場が与えられ(SADにその場面がなかったのがファン的に少し残念w)、それがAIに多大な影響を及ぼし、「感情」という機能を宿すAIになることができたが・・・って感じなのかなあ。つまりは、AIたちは自分たちが実験してるように思っていたが、実のところ、人間の有り様を見て、そのエッセンスに感化され、見覚えをしたのかなと(それをAIの言葉に翻訳すれば感情と言うウイルスに感染するとなるのだろう)。そういうように思うと、AIの幼き知性がとても愛おしくなるのだった。
  • そして、意外に大きかったのが「記憶」の役割。お芝居冒頭で「記憶は脳ではなく体に宿る」という話がでてくるんだけれど、脳への直接的な破壊的なアレであったり、AIへの完全リセットであったりをしても、そこには「記憶」が残っていて、それが彼らの行動に無意識のレベルでおそらく影響しているし、その無意識を呼び覚ますのがなんらかの「感情」であると。もし、広報委員は一番最初に委員会メンバーでデジャビュを訴えていたし、その引き金になったのがアバターへの「愛情」であったり「可愛い」という「感情」だったんだろうなあと。それを思うと、美化委員の「美」への感性も、きっとなんらかの引鉄を引いているのだろうな・・。
  • そういう解釈や想像の後押しになってるのが、一人一人の演技で、私だったら、やっぱり萩ちゃんの、最終盤の理性的な言動の上に徐々ににじみ出てくる感情であったり、アバターや他のAIへの想いが毀れるところであったりが、本当に好きなお芝居であったなあと。先にも書いたけれど、SADの人間としての意思の告白場面がなかったんだけれど(見せ場の分量的なものなのか、それとも違う意味があるのか)、それを余りあるものとしての図書委員の感情の揺れ、そして、リセット後のどこか颯爽とした意志を秘めたような拳を握る表現がよかったんだよねえ・・。「目的」ではなく「意思」と言えば、図書委員のRAPパートのところ、ずっと本を開いて見つめていたのにパチンと閉じて、すっと背筋を伸ばして表情豊かにRAPなセリフを展開するところが本当にカッコよくって。あそこは得た知識ではなく、自分の中から迸ってくる言葉であり歌であるっていうことなのかなあ。まさしく「意思」であった、あの切り替え、素敵だったなあ。
  • 他の役者さんもそうだったけれど、今日の萩ちゃんの声の響きの良さよ。どんな声の表情の時でも、しっかり耳に残る、柔らかだけれど、突き刺さるような響き。萩ちゃんのセリフ回しはほんとリズム感と抑揚がバリバリとあるんだよなあ・・。図書委員はキッチュだからそこが余計にあって・・・。そこにほんとやられる・・

  • さて、夜の萩ちゃんの修行は、マチネと同じく鉛筆修行でした。3本連続でやることになり、ちょっとネタ切れっぽく辛そうだったけれど、やきりったよ~。ほんといい経験をありがとうございます!