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Love-tuneから7ORDERへ:どこにいたって君がアイドルだ

ギーツVシネ、公開されたよ~!(ネタバレあるのでご注意!)

 2024年3月8日(金)、萩ちゃんが出演されているVシネクスト「仮面ライダーギーツ ジャマト・アウェイキング」が公開されました。自分はこの日は横浜は桜木町のブルグ13の夜の部の舞台挨拶を見に行きまして、翌9日は朝1で新宿のバルト9のシアター8で、これで3回見終わったことになります。個人的には、映像や音響の質が一番よくて、画面が大きすぎなくて、ズーム感もありながら、一目でみんな目にはいるのが好きでした~。ここからはこのシアター8で見ていきたいなあと。

 XなどではVシネも概ねみなさん喜んでいらっしゃって、ゲストの推しである自分も本当に嬉しい限りです。萩ちゃんをはじめ本当に表情のひとつひとつがキリッとエッジが立ってて美しくて素晴らしいし、色々と細かいことを言いたくなりつつも道長の成長という大事なポイントをがっつり押さえたわかりやすい脚本であったり、お芝居パートとスーツアクションパートのバランスがとてもよかったり、ロケもしっかり入ったアクションのスケールの大きさとか。本当に良いところが満載の1本になってると外野からでも感じました。55分と言う短い尺の中に全部入れちゃったからこその密度の濃いすぴーと感があるんだろうなあと(さて以下からネタバレもあるので、少し空けますね~)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 完全な後入りの自分ですが、個人的にギーツの締めくくりの映画として考えると、今回の最後のテーマは未来は「子どもの成長のあり様」にかかっている、仮面ライダー(というかニチアサ)の主たる視聴者は「子ども」である、というところに立ち返ってるのが素晴らしいなって思ったもうじき還暦のおばばであります。ここまでギーツは主に青年以上の人間が難しい世の中で生きる大人としての夢をどう叶えるかという話で来ていたんだと思うし、劇場に来ている青年期の男子女子を見ているとそういう「青年を支える」機能を積み重ねてきたんだなあって感じます。でも、一方で、やっぱりライダーが守るべきはまだ自分の力だけでは自立できない「子ども」であって、「子どもの危機」をどのように守るのか、救いに近づけられるのか、そこが肝心なんだとはっきり示してくれたのが普遍に至る物語になってるなあって思うのですよね。多くの人に守られて、血みどろになりながら成長してきた若者が、敵をも救うような大人としての役割を果たせるか・・そのとば口を見せてくれたのが本当によかったなあ。

 そんなところに自分が注目してしまうのは、やっぱり推しの萩ちゃんが演じた登場人物が、ある目的を持って生み出されたものの、その創造主の意図に沿った成長ができず、悲しみの恨みの果てに(萩ちゃん曰く)「救いようのない悪役」になってしまうところを、結構ズバズバと突き刺さるように示しているように見えているからですよね。人とジャマトの共生を掲げて生み出されたけれど、彼は「食べる」ことができず、口からの摂取に苦痛を感じてしまっていた(人の食べ物で彼が口から摂取できるのは水だけって辛すぎる・・)。一方で、人間を愛することができた彼女は人間から差し出されたパンを美味しく食べることができた(彼女たち夫婦がパン屋をやっていたのは、それしか彼女が食べることができなかったからかもしれない)。

 一緒に「食べる」こと。そして「食べること」に愛を持つことが、人の孤独をやわらげ、仲間との愛情を育むことは、ギーツ本編の道長話ではなんども語られてきたところで、本当に終盤のすき焼きの話とか大好きなんですが、その大切さが敵方に翻ってネガティブな方向で示されるの辛かったなあ。今度は(おそらく生物学的に)「食べることができない」けれど「人と共生を命じられ上手くできなかった若者」の「怒りと恨み」と「大罪」を描いていたんですよねえ。っていうか悠也先生のそこに秘めた辛口さ加減よ・・なのよね。でもって、食べることができない彼の萩ちゃんの演技の痛々しさが本当に肌に突き刺さるようなお芝居であったと。彼の内臓というか水管を破壊されるような痛みを、推しが故に感じてしまったのはね・・・・。でも、どんなに辛くても、それを誰かが救ってはくれなくても(大智先生はこの状態をなぜ放置してしまったのかなあ)、だからと言って決してやってはいけないことがある。萩ちゃんもきっぱりと「救いようがない悪役」とパンフレットで明言をしてる、その「闇」を許さない、「光属性の強さ」にまた惹かれてしまいましたね・・。

 この「食べる」ことにフォーカスを当てるのは、悠也先生脚本・演出の舞台「ID」でも凄く印象的に使われていたけれど、この異なる作品で共通した意味や役割をもつ使い方という面で気になってるのは、「キリスト教モチーフ」のぶっこみ方。舞台IDでは千穐楽(東京、大阪とも)にアダムとイブの創世神話をぶち込んでこられた訳ですが、今回は、処女懐胎じゃないかと思っております(つまりはマリアとヨセフで、葉月は直接清春の子どもを産んだわけではないのではないかと。ジャマトの神から授かったんだろうなあと。わんちゃんキングの花粉が・・)。ゴット覚醒(誕生)にやってきたのが3賢者ならぬ3ライダーってのかもしません(妄想は果てしなく)。

 とまれ、道長や英寿たちの活躍で未来は変わったかもしれませんが、逆にいつでも発動する可能性もある訳で、作ろうと思えばいくらでも未来に話を広げられる世界がこうやって確立した感がありますよね。個人的には、もうひとりの〇〇はなぜ生じてるのかめちゃ気になるので、そこもお話してもらいたい気もします。そして、推しが全力で「初の救いようのない悪役」がまた復活したら嬉しいかも・・と思ってもいたりするのです(笑。まずは、そんなあたりで~。もうあと何回かみたら、萩ちゃんのお芝居のことをがっつり書きたいです!。