ラボを捨て、ビーチに出よう

Love-tuneから7ORDERへ:どこにいたって君がアイドルだ

新年度に当たってのスタンス

 このところ、ツイッターなどでよく、エンタメを提供する側(本人、スタッフ、運営など)とファンの側でのいざこざというか、主にファンの側からの異議申し立てを目にすることがあります。

 それは、ツアー初日前に新曲を披露するなであったり、無料でライブするなであったり、ランダムグッズを売らないでであったり、自分が気に入らないキャストを変えろであったり、コンサートや舞台のチケット代の高騰であったり、そのチケットの売り方であったり、ファンが大切に思っていた名称を他のことに使用しないであったり、コンテンツ提供の終了であったり、はたまた交際をスクープされたことへの本人のご意見であったり。それらの多くは、ファンという立場であるから、これまでにそのコンテンツにお金を払って盛り立ててきた立場だからこそ、そのコンテンツのために私たちは異議申し立てをするのだという前提でお話しされていることが多いようです。冷静に意見を意見として述べている方もおられますが、その中には、整然とした異議申し立てを超えて、かなり乱暴な言葉づかいであったり、直接的な誹謗中傷の域にあると感じる言葉を、ほぼほぼ本人たちにストレートな言葉でSNS上でぶつけている方もいらっしゃいます。

 そんな様子を見るにつけ、自分が思ってしまうのは、今書いたの事柄の多くが、ファンの多くは望んでいないことかもしれないけれど、ショックなことかもしれないけれど、それを行う決定権を持っているのは提供側であるということです。私たちは、その提供者により作られたコンテンツに出会い、それをもっとたくさん見たいからこそお金をだし、様々な形での応援を行っているわけですね。確かにその物理的&心理的な応援があることがそのコンテンツを支え、はたまた栄えさせているのでしょうが、始まりは「提供側がコンテンツを作り出してくれたこと」であり、その文脈でファンという消費者がコンテンツ提供者を上回る権限を持つことはないんだと思っています。

 更に、このあたりは自分の昭和な感覚かもしれませんが、コンテンツを作り出し、消費者の元に届けるためには、クリエーターの力と、それを世に出すためのお金の力であったり、運営の力がもっとも根源であり、そこで決定されることはできる限り、尊重されるべきであろうと思うのです。個人的にはクリエーター(タレント)の力がもっとン大事だからそこは周囲の方々も大事にしてほしいけれど、それぞれの台所事情があるのもこの世の常だから簡単にはいかないと思うのですよね(だからこそ、最推しのグループはしがらみの少ない自主系でなんとかやろうとしているのだと感じています)。消費者であるファンは、外側から意見を言うことはできるけれど、相手側を尊重し粘り強く意見を届けることはできるけれど、それはあくまで一消費者の意見でしかない。叶わないことだってある。ぶっちゃけ消費者が、生産者を動かす可能性を持つ唯一の正当な方法は「不買」でしかないと思っています。

 そんなのディスコミュニケーションじゃない・・と言われそうですが、商売の基本的フォーマットはそれで、完全クラウドファンディングでない限り、資本主義にはディスコミュニケーションが埋め込まれてる。それを根本から乗り越えるには、自分がその運営側に参画するしかないわけですが、今すぐにそれをするのは難しい(大株主になったり、とんでもない大金持ちの実力者になれば別でしょうが)。そして、ファンが思っていることが、彼らがやりたいことであったり、考えてることと一致してるわけではない場合には「これはやだ。こうしてほしい」が彼らの足に枷をはめているのではないかと考え直すことも大事なことかなあと思います。だいたい、人が他の人を直接的に思い通りに動かすことなんてできないんじゃないかと思います。その乖離が明らかになった時に、私たちがとりうるのは、彼らのやり方は今は自分の志向とは違うから、少し距離をとってみようであったり、少し推し方を控えようと思ったり(個人的にそれは全然問題ないと思うのですよね)、公式に誠実にその思いを訴えること。SNSを通じて提供者に直接的に怒りをぶつけたり、自分は傷ついたと傍若無人な態度をぶつけるのは、何があっても違うと思うのですよ。

 その理由は、上にも述べたようなことに加えて、たくさんの人にネガティブな感情をぶつけられたら人は少なくとも精神的にはその人には相当なダメージがありますし、たくさんの人を怒らせているというように更に外の人に認識されたら、あなたが傷ついていること以上の社会的な傷であったり制裁を受ける可能性だってある。消費者は言うてそのコンテンツであったり思い出だったりを失うだけですが(怒りに燃えている際にはそれはほとんど「死」と同じように感じられるのかもしれませんが)、やられた側は本当に多くのものを失う、社会的な立場を失うことだったり、もしかしたら自分の命を失うことも十分にある訳です。そのくらい、提供側と一消費者のおかれている場所は違う。自分はマナーもへったくれもなくやりたいように物言いしてるのに、提供者には有能な聖人君子を要求する・・それはあまりに無理筋です。

 推し活という言葉がポピュラーになって、何かを「推す」ことは社会的にも意味があり、称揚されるべきことであるという認識が高まってきているとは思います。しかし、ながら「こんなにお金を出しているのに報われない」「出しているお金に見合った待遇受けるべきである」と思うようになったら、個人的にはそれは「お金や時間の出しすぎ」の域に入り、こころと懐が疲弊してるからだと思うのですよね。ファンの思いの籠ったのお金を、コンテンツの存続のためだからと、運営から要求されているような状況であったとしても、無理して出す必要もないし、運営もそれを求めすぎると大変な結末が待つことになるのだと思います。うちの子たちが、新譜発売の際にレコード会社の企画で、抽選でのサイン会などをやってはいるけれど、彼らがいまだに「たくさん買って」であったり、「たくさん見て」であったり、「たくさん舞台やライブにきて」と言わないのは、ひとりのファンに大きな量を直接的な言葉で求めないのは、単に売れなくてもいいであったりとか、頭を下げるのがいやだってことじゃなくって、ファンとの適切な、あるべき距離感(倫理的に正しい)を取ろうとしてるからだと思っています。初めての武道館ライブの際に「来ないことを選択したあなたを尊重します」といった言葉と精神は今でも確かに残っているのだと思うのです。

 多ステも、多課金も、基本、自分の満足のために行うこと。自分が消費したらそれで消えるもの。自分の経済の範囲で行う分にはいいけれど、それがいろいろなむつかしい時には適切に距離をとる。そしてそれを後悔しない。楽しい推し活が恨み節に陥るのを避けるカギは、第一に自分であり、運営でも推しでもない。もしそれで推しの人気があがらないのなら、そのひとまずの流れを推しと共に受け入れる。それが納得できるのなら、推しの心は守られ、きっと推しは何度でも立ち上がってくれることでしょう。その何度でも立ち上がる時に、ずっと応援できるしなやかな心を持っていたいなあと思う2023年度始まりの私の「お気持ち」でした。