ラボを捨て、ビーチに出よう

Love-tuneから7ORDERへ:どこにいたって君がアイドルだ

舞台「Little Fandango」のとても好きだったところ その2

 2回目は、ヘンリー・マカーティに関するお話をまとめてみたいと思います。

1.ジョン・バーリーコーンもしくは一粒の麦の成長という比喩

 もしくはタンストールさん大好きみたいなテーマであったりします。ほんとこのタンストールと言う人物像が、それを演じる松田さんの演技の素晴らしさもあって、本当に心が奮える人になっていて。更に、マカーティがタンストールや色々な人々に出会いって変わっていくことを、ジョン・バーリーコーンというウイスキーであったり、その原料である麦とその成長のように描いているのが、自分がウイスキー好きということもあってとても好きだったりしています。

 イギリス(おそらくスコットランド)からアメリカのフロンティアに渡ってきて、地元のならず者のような若者たちに仕事を与え、文字を教え、自分の気持ちや自分と言う存在を書き残すことを教えて、それが歴史となっていくことを教えていくタンストールさん。フロンティアの若者たちは、過去に植民地としていたイギリスの酒である本場のスコッチに執心だけれど、そこから渡ってきて、根を下ろそうとしているタンストールはおそらくアメリカの地元の麦で作られ醸された(であろう)ジョン・バーリーコーンという酒をこよなく愛している。ジョン・バーリーコーンはwikiにもあるようにスコットランドでは麦の比喩でもあり、刈り取られても酒やパンとなって人を潤し、そして麦のままであってもまた再びその土地に蒔かれて芽を出し、新たな実りに繋がっていくことを暗示している。そして、タンストールさんは、自分自身や一家の若者、そしてマカーティ達に、その麦と酒と同一視して、思いを託していくのですね。

 個人的には、タンストールさんからジョン・バーリーコーンに喩えられたマカーティが、一粒の麦が発芽し成長していくように描かれるように思えて、その流れがとても好きだったりしています。孤独にかつ罪を罪とも思わないような世界で生きてきたマカーティがタンストールの愛に出会い、ジョン・バーリーコーンを飲まされてて芽を出すための刺激を受ける。芽吹いたら、そこに一目ぼれしてしまう女性がいて、食事を食べさせてもらえるのは、芽吹きに肥料を与えるようなものだろうか。そして、助け合える仲間と仲間のために活躍する喜びを知り、大きく成長する。愛する女性との間に子どもを設けるけれど、自分は刈り取られる運命の命であって、でも、その消えゆく命は新たな命に引き継がれていくことを知って、自分の人生と死を受け入れて、新しい命とその命が育つ未来を信じてこの世を去る・・。

 まるで、大麦が大地にまかれて半年で成長して実をつけ、枯れていくような、とんでもないスピードで駆け抜けた人生(今、ちょっと大麦の平均的な栽培を見ていたら、種をまいた後、1~2か後に、その種を撒いた土地を踏むとう「麦踏み」という過程があり、その後、芽を出すとのことで、タンストールに出会う前のマカーティの苦難と犯罪を犯してきた前半生と重なるのかもですね)と、重なるように描いていて、短くともなすべきことを成就させて生き抜いた人生をしっかりと見せてくれて、その美しい様式に感動したのでした。加えて、その過程や生き様が、萩ちゃんの深い情熱がありながらも、色んな事を見通す賢さもありがならも、どこか不器用に一歩一歩積み上げていく姿に重なるなあと感じて、ファンならではの思いもまた深くなるのでした。

2.マカーティのファンタジー

 さて、今回のリトファン、作劇的な見どころとしては、少年ヘンリーが親友のマクスウェルと一緒になって、残された日記群に入り込んでき、その日記の世界でまさに生きて、体験する造りになってるところですよね。その大きな演出の枠があるからこそ、今回の2022年バージョンでの観客の解釈に「マクスウェル亡霊もしくはイマジナリーフレンド節」があるんだと、私は思っています。さて、その空想(日記)の世界、少年ヘンリーとマカーティは何度か交流するのですが、そのシーンは単に少年ヘンリーがマカーティを想像してるのではなくて、実際に(というのか)マカーティが死んで分かれてしまった成長した我が子と向き合うシーンでもあるなあと感じているのです。

 一つ目の二人が絡むシーンは、オープニングの「誰だ!」と後ろ姿のマカーティがいかつさを持って言うシーン。このシーンに日記を読んでいる少年ヘンリーの「誰だ!」が重なっている。このマカーティの言う「誰だ」は本当に誰だかわからないという口調で、とても戦闘的な言い方をしている。これは、史実でマカーティが最後の言葉として記録されているものではあるのですが、少しだけ後ろの少年ヘンリーを気にしている様子で、その少年が「誰」であるのか、空想のマカーティが気にしている・・そんな風にも見えるのですよね。

 そのファンタジーを更に強めるのが、2幕の冒頭の日記を読む少年ヘンリーをマカーティが本当に懐かし気に、柔らかく静かに見つめるシーン。なぜ、少年ヘンリーを全く知らないはずのマカーティがそんな目でヘンリーを見つめているのか・・。それは、上に書いたシーンの後、ヘンリーが日記を空想する一連のシーンの中でヘンリーに出会ったり、触れ合ったり(心は通じていないけれどw)、もしかするとこの子が自分の遺児であるとわかってきつつあるから・・という空間も時間順序も越えてしまうシーンの様に感じてしまうんですよ~。変な話かもしれませんが・・。

 そして、最後のマカーティが少年ヘンリーが父子として、しっかりと相まみえ、マカーティが銃の手ほどきをする一瞬の邂逅シーン。本当にこのシーンでの萩ちゃんの父親らしい雰囲気や毎回少しずつ違う父親らしい表情を見せるのがたまらなくって、哀しいような嬉しいような、素晴らしいシーンなんですよね~。そして、この胸が熱くなるような父子の邂逅のシーンは、物語の中で赤ちゃんヘンリーをマカーティが抱いて、未来の祝福の言葉を残し死んでいったから生まれただけじゃなくって、この舞台(空想)を通じて、少しずつ出会っていくマカーティと少年ヘンリーの繋がりの深さがあるからこそ、生まれきたシーンなのかなあと感じています。
 本当に時間関係めちゃくちゃな空想的解釈でお恥ずかしい限りですが、物語の縦線になってるマカーティと少年ヘンリーの邂逅の変遷が素敵すぎるため、ついつい想像してしまうのでした・・。そして、この父子はほんとにイマジナリーな存在でここにいるんですが、親友のマクスウェルとはヘンリーは共に人生を生きていくんだなー。それもまた熱い気持ちになるところですね。