ラボを捨て、ビーチに出よう

Love-tuneから7ORDERへ:どこにいたって君がアイドルだ

キルミーアゲイン'21(1回目)とてもざっくりとした感想

 さなぴーこと真田佑馬くんが出演する、劇団鹿殺し活動20周年記念公演の「キルミーアゲイン'21」を9月30日の初日に紀伊国屋ホールにて見てきました。お芝居を見る楽しみがてんこ盛りで、本当に言いたいことが山のようにある舞台。そして、もちろんきちんとした演劇レビューを書ける訳でもなく(すぐに素晴らしいレビューがツイッターなどでも上がっていましたよね。ほんと凄い)、そしてなんていうか「私観」みたいなものばかりプカプカ浮かんでくるので、ひとまずはそれを書き留めておきたいと思います。

 まずは当日の自分の記録・・・。

  • ストレートプレイのお芝居をあまり見ていない人間なので自分の数少ない経験からすると、とにかく語るべき要素が多すぎて圧倒されたお芝居でした。お芝居も、歌も、楽器の演奏も、ダンスも、ドタバタ&お笑いも、とにかく詰め込まれていて、2時間10分と言う長さがまったく気にならないと。時系列というかお話の運び方のせいもあるけれど、コラージュ的に印象の強い場面がいっぱいあって、ある意味「意味が拡散している」、「整理されていない思いが四方八方に飛び交っていく」、そんな万華鏡状態。一方で、お客さんを楽しませるエンターテーメント精神と、お芝居をする側のこんなのやりたいという楽しみとがとっても上手く融合していて、演じる側と見る側がいい感じ手を取り合ってる感じがしましたね~。唐さんのお芝居と宝塚と吉本がまじりあって、それをセミプロ(このお芝居のキーワードでもありますよね)の衝動で捏ね上げられた・・そんな満足感がありましたよ。
  • 個人的にテーマだなあと思ったのは「逃げることの意味」みたいなもの。思いがあって外に出ていくことと、その背後には何かから逃げていることが存在している。逃げた人と残された人。逃げることも叶わずその時点に葬られてしまう人たちもいる。それぞれの人間の存在や思いは交わらないように見えて、お互いに影響を及ぼし合っている。「人の思いややってきたことは残るけれど、人魚は泡のように消えてしまう」というテーゼがあるけれど、人魚の泡こそが折々に現れて、逃げてしまおうとする人間に絡んで残る想いを蘇えらせる存在であって、その意味で永遠の存在であると・・
  • そんな訳で思うのは、タニシ座が取り壊されるところで、ひとつの繋がってきた思いから「逃げる」ところで終わる訳だけれど、その後の全員揃っての明るいライトを浴びながらの全員の、お芝居を続けている「今」の姿となってその「逃げ」が再生されてるように思うんですよね。あそこが本当のラストシーンなんだろうなと・・。なぜ、そんなにしてまでというか、そんな風になってまでも蘇ってくる「芝居への思い」というか「芝居につかまってしまった人間」の存在を見せたかったんだろうし、だからこその周年記念のお芝居なんだろうなと。
  •  周年記念と言えば、今回、お花OKになったのよかったな~。ロビーを埋め尽くすお花の数々。そして、舞台の上の登場人物も多くて、比較的小さい紀伊國屋ホールのステージにはたくさんの躍動するいのちが溢れていて。色んないのちのエネルギーが溢れているのが演劇なのだと、その基本を思い出させてくれるステージになっているなあと。わたしたちにとっていちばん大事なものはなんなのか、今何を忘れようとしていたのか、そこに向き合わせてくれたのは感謝と言ってもいいくらいだなあと思ったのでした。
  • そんな中でその物語の中で、「思い」の中心(ある意味中空)として存在するさなぴー演じる藪中。藪中は、そのカッコよさですべての思いの中心となってしまうけれど、とはいえそれを全部背負う訳でもなく、ある意味普通の人間として、様々な人間の思いをブラックホールに吸い込んでしまう様な、それが魅力のような人間として、舞台に立っていると。その美しさと普通の人間の弱さみたいなものがすっごくストレートに伝わってきたなと感じたなあ。でも、きっとそのブラックホールの底がもっと抜けてしまうこともあるのかもしれない。その瞬間が見たいなあとも思う1回目の観劇でした。