ラボを捨て、ビーチに出よう

Love-tuneから7ORDERへ:どこにいたって君がアイドルだ

ブログタイトルのこと

 このブログのタイトルは、2015年4月から放映されていた山下智久くん主演のテレビドラマ「アルジャーノンに花束を」のラストシーンからの引用なのです。

 知的障害があった主人公咲人が蜂須賀教授が開発した奇蹟の薬剤ALGでいったんは天才になるものの、その副作用で元の障害のある咲人に戻ってしまうまでを描いたドラマです。現代版と銘打っているだけに、原作が発表された1960年代の知能観や障害者観(それでも障害のある人の尊厳というものに注目したのは画期的に新しかったのですが)から、一面では変わってきた障害のある人の現代的な「あり方」というものをしっかりと取り入れていて、個人的にはかなり感心した、満足度の高い作品でした。

 ラストシーンは、元に戻ってしまった咲人が、二人の育ての父、彼を息子のように愛し天才化した研究所の蜂須賀先生、と、彼のありのままを愛し、ありのままでも生きていける職場・花屋ドリームフラワーサービスを作った竹部、の下から飛び出して、咲人の「ほんとうのともだち」である柳川と檜山と三人で、海水浴場でハンバーガー屋を開くという結末になっています。

 夏の海水浴場で、咲人がそのだれでも魅了される美しい顔ととても親しみやすい愛嬌で女の子たちを言わばナンパして、檜山と柳川が美味しいハンバーガーを作って売って、彼女たちを楽しませて、自活していくというラストシーン。障害があっても、自分の能力を活かして、社会の中で人に満足をもたらして、それで自活していく、そのことは「人とその才能(能力)は社会の中で成長し、活かされていくものである」という現代の人間観を良く反映しているなあと、個人的にはかなり感動したのでした。

 しかし、世間では「なぜ知能が元に戻った咲人がドリームフラワーサービスを出なければいけなかったのか」、「若い者だけで自活してくなんて、それも女の子をナンパして生きていくなんて、お花畑過ぎるラストだ」、「若い男子だけの共同体なんて野島さんの趣味か?」みたいな批判もたくさん渦巻きました。個人的には上に書いたように、理念的にはわかるものの、だったらもうちょっとわかりやすく説明して欲しいなとも思ったことを思い出します。

 また、そのシーンだけでなくラストに近づくにつれ、その意図が読み切れないシーンが増えていきました。ALGで天才ラットになったアルジャーノンがその副作用で死んでしまいます。当然のことながら研究所では解剖しその原因を突き止めようとするのですが、菊池風磨くんが演じる若い研究員で、アルジャーノンの世話係でもあった小久保があろうことが、アルジャーノンの死骸を奪い、逃走するのです。研究のために生きる者であるならば、そんな未熟な私情に流されるより、今後の研究のため、今後も作りだされるであろう天才ラットのために、尊い犠牲を役立てるべきでしょう。

 でも、長年アルジャーノンの世話をして訓練を続けてきた小久保には、アルジャーノンは誰の替えもきかない大切なともだちとして、一匹の実験用ラットを想い取り換えのきかない大切な存在、しっかりとした人格を持った存在として見るようにになっていました。彼は天才化した咲人と一緒に、深い森の中に、アルジャーノンのおはかを作り、そこに彼を葬ります。そして、咲人がALGの副作用で倒れると、ドリームフラワーサービスに全速力で走っていって「さくちゃんのほんとうのともだちはいませんか!?」と大声で叫び捜します。

 生きる者の尊厳、かけがえのない存在、そして本当に一緒に生きるべき人は誰なのか、それこそが大切・・・・そんな大まかな意味はわかります。でも、なぜ、言わば「厨二化」して、必死になって、その「情」に殉じようとしたのか、そこが喉の奥に引っかかって、腑に落ちずに、自分のこころの中に残り続けたのでした。

 そして、野島さんの最近の作品を少し調べて行くと、「49」や「お兄ちゃんガチャ」のようなジャニーズJr.のメンバーがたくさん出演する作品を作っていることがわかってきました。そして、今回のドラマ版「アルジャーノンに花束を」、もまたそれに連なる作品の一つであって、野島さんのある想いが込められた作品だったのではないかと、またその想いは決して彼の中だけのものではなかったのでは?と、半ば妄想するようになってきました。その最後の決め手があのソロコンタイトル「誰が人形やねん、あ?」(個人訳ですがw)であった訳ですが・・・

 まあ、そんな訳で、このあたりの話というか、妄想もおいおいと書いていきたいと考えております・・・。