ラボを捨て、ビーチに出よう

Love-tuneから7ORDERへ:どこにいたって君がアイドルだ

仮面ライダーとわたし

   らぶごとで毎日楽しく忙しく過ごしているけれど、ふとしたはずみに「ああ、会いたいなあ」と思うのは斬月舞台とその登場人物の皆様。いわゆるこれがロスっていうヤツなんですかね?。それに、まだまだ言いたいことがあったり、全キャストへの感想書けてないなあと思ったり。そんな訳で、時間のある時に、ここに壁打ちしておこうかと思います。本当にひとりごとです・・。まずは、昭和を懐かしむおばさんの話から・・。

 そろそろアラフィフもヤバくなってきた自分が、リアルに仮面ライダーを見ていたのはちょうど仮面ライダー1号、2号(こちらがメイン)の頃。今の小学生がごく普通に仮面ライダーを見るように、ごく普通に、特段の強い興味もある訳ではなく、ただただのんびり見ておりました。長じては特撮に嵌ることもなく、子どももいないので平成ライダーも一作も見ておらず、何十年と言う時が経ちました。

 とはいえ、何度も何度も繰り返される再放送(思えば昔は本当にプログラムが少なかった)の仮面ライダーを見ていたせいか、その頃の記憶は結構クリアです。一番印象に残っているのは主題歌の後のナレーション「仮面ライダー一文字隼人は改造人間である」というフレーズ。なんどこのセリフを聞いたのか、今でも耳の奥にナレーターの方の声がはっきりと蘇ります。悪の組織に改造されてしまった後戻りはできない悲劇を背負った青年。その存在は単に悲劇という存在ではなく人間が文明化した宿痾のようなもの。その業を背負って生きる哀しきヒーローが仮面ライダーという存在。高度経済成長の裏側で起きる公害や、あれだけ大きな被害を与えた世界大戦の後も収まらない各地の紛争、そして核戦争の危機の予感、といった1970年代から80年代の時代の想いのようなものを、子ども心に感じさせる番組の一つでもありました。その一方で、仮面ライダーごっこや、山の空き地に作った自分たちのショッカーのアジトなど、毎日の遊びのネタを供給してくれる貴重な資源でもありました(男女混じって遊んでましたね・・)。
 そんな訳で、この年になって、初めて平成の仮面ライダーに出会い、彼らは改造人間でないと知って、自分の意思で仮面ライダーに「変身」していると知って、無作法にも「なんだかな・・」と思った訳ですねw。本当に自分、偉そうですww。色々見ている訳ではないのですが、鎧武本編ではこの時代らしく、彼らは自分探しをし続け、その過程で色々あるとはいえ、自分の意思でライダーになる。もちろん自分の意思とは何か・・ということもドラマの中では問いかけられているいるのですが、そこはとてもクリアに「自分の意思で、選ぶ、背負う」ということが強調されていた。だからこその感動の結末(個人的には紘汰の選択は最後に至るまで感動でしたし、戒斗の選択も彼自身の旅路の末の選択だから尊い)なんですよね。今の若者に本当に必要なことを言ってくれている。でも、そこにどうしようもない哀しみみたいなものはない。「ああ、時代は変わったのだなあ」と思ってはいた訳です。
 でも、呉島貴虎が「弱さを知ること」で「人」としての成長を遂げる斬月舞台にはもう一度その「改造人間」という主題(テーマ)が横たわっていた気がします。巨大企業の実験場となったトルキア。そこで最終的に目指されたのは人を人外の存在(化け物という言葉がずっと使われているのが印象的です)に改造しようとする企みでした。若者たちを実験動物のように扱い、その意図を隠して若者たちが自ら選んだかのようにしてベルトを与え、密かに改造し、自らの欲望を叶えようとする陰謀。舞台の中では、最終的にはっきりと改造されたことがわかる人間は舞台の中で滅んでしまうので「改造人間」の主題は明確にはならないのですが、これは明らかに「力が欲しい」という文明のエゴによって「改造人間である」仮面ライダーが生み出されるという昭和の主題が感じられた瞬間でした。
 その昭和の仮面ライダーの主題はもう一つの言葉で奏でられていた気がします。それが、呉島貴虎に散々投げつけられる「おっさん」という言葉。トルキアの少年たちから散々言われた言葉でしたが、子どもたちを守ろうとする戦いの中から、唯一人の強さを求めた雅仁との戦いの中から、貴虎は名実ともに「おっさん」に成長したのだと思うのです。そして、その「おっさん」という響きは、私の頭の中で簡単に「おやっさん」という言葉に変換されてしまい、胸の中に懐かしい気持ちが広がったのでした。一人の平成の仮面ライダーであった貴虎が本当の大人に成長することで、(自分の傷やそれまでの役目も背負いながらも)心身両面で傷を抱えた青年ライダーを支え、守る立花藤兵衛さんと同じ役目を引き受けた・・・そんな風に感じられたのです。自分の弟の時にはなしえなかったことが、その時の悔いも学んでできるようになった・・ということなのでしょう。だから、「おっさん=おやっさん」というのは一種の称号なのです。あと、トルキアの貴虎のカーキと黒の衣装って仮面ライダー1号、2号色ですしね・・。

 そんなかんなを実感することで、自分の中の昭和の仮面ライダーの世界がようやく平成のライダーの世界につながることができたのでした。今もまだ70年初期の主題は新しい響きを聞かせてくれるのかもしれません。さてさて、この私の胸の中のつながりは、令和の時代の仮面ライダーにつながっていくんでしょうか。ともあれ、自分の中の時間軸がひとつ未来につながった・・そんな気分になった舞台仮面ライダー斬月の経験でした。